無償の愛を知らない私。

それは、無償の愛ではなかった。

親子関係の話だ。

一般的に見て裕福な家庭で育った私は、人から羨ましがられる存在だった。

だけど、自分の考え方が大人へと成長するにつれて、疑念を抱く様になった。

 

幼少期は、私の望みを叶えてくれた両親にすごく感謝をしていたし。

この家庭に生まれた私を羨む友達がいることに、私は優越感に浸っていた。

だが思春期になると、周りからの嫉妬は侮辱に変わっていた。

いつまでも親に頼っている子供のレッテルを貼られる様になったのだ。

それから私は自我を出すのが怖くなった。わがままは言わないでおこう。周りがうらやむことはしないでおこう。と

高校生になって、必要がない。と言われていたアルバイトをし始めた。

少なからず、親のお金でしたい事をする私を、小馬鹿にする周りの意見に納得ができたからだ。

アルバイトは続かなかった。

学業とアルバイトを両立するのは、過保護に育てられた私には合わなかったのだ。

大学生になっても門限は勿論のこと、1人暮らしをしている友達の家に泊まる事ですら、許されなかった。

それは私が成人しようが、大きな変化はなかった。

そのことで何回も口論になったし、その度に私は自分の考えを否定され、自分が未熟である事を思い知らされた。

 

“嫌なら出て行け”

私には6つ上の兄がいて、彼は小学校高学年になる頃には家出をしていた。

そして、叱られ、殴られては家に戻るを、何度も繰り返していた。

幼いながらに私は兄が悪いと思っていたが、今なら彼の気持ちが理解できるし、行動に移した彼をすごいとも思う。

 

”お前にいくら投資をしたと思っているんだ。“

それは冗談混じりに言った些細な言葉のつもりだろうけど、私の心に強く残っている。

そりゃそうだ。親も人間だ。

一生懸命働いたお金を子供のために使い、これっぽっちも見返りを求めないなんて綺麗事だ。

 

だけど、これらの言葉が大人になった今でも

私を苦しませている。

いつのまにか親の許可なく、何かを始めたり、考え、行動をする事が怖くなっている。

逃げる事も、見返りを求める親に答える事さえできていない、こんな自分が憎い。

 

自分の親を酷い親だとは思わない。

こんな私でも育てて、見捨てずにいてくれている。

だけどわからない。無償の愛って何だ。

これが”無償の愛“だと言うのなら、なぜ私は疑念を抱いているのだろう。

本当に優しい人とは

好きな男性のタイプは何ですか?

“優しい人” と、

ほとんどの女性が答えるのではないでしょうか。

ただ一言に優しいと言うのはどんな人のことを言うのでしょう。

車道側を歩く女性の肩を引き、歩道側に寄せること?

エスカレーターに乗る時は、登りは後ろ、下りは前にと女性が転ばない様に配慮をする事?

どちらも気遣いや、女性と男性の違いを理解した上での優しい行動です。

ですが、これは表面的な優しさではないのでしょうか。

本当に優しい人とは、

自分が与えている優しさを理解し、それを正しいタイミングで使える人ではないのだろうか。

誰しも、人を悲しませたくないと思う心は持っているでしょう。

ですが、何かを犠牲にする時は必ずきます。

誰かを悲しませたり、傷つける時は必ずきます。

その時に相手に表面的な優しさで接すると、

かえって傷が長引き、時には消えない傷跡となるのです。

だから、どうか、どうか、その時だけの優しさは、捨てて下さい。

あなたが本当にその人の幸せを望むのなら、それが浅い傷になるのなら、今は傷付けてもいい。

必要な時に、正しい方法で

人を傷つける勇気を持っているのが

本当に優しい人ではないのでしょうか。

 

 

私の夢

小学校の頃や、中学から高校、大学に進学する時、

親や大人達は“将来の夢は?""将来何になりたいの?”と子供達に尋ねる。

私はその光景が不思議だった。

私は昔からその質問が嫌いだった。

夢がない人は夢を見つけるべきだと言われている様な気がして。

自分が何かをしたり、何者かにならなければいけない様な気がして。

私の夢は、幸せになること。

それなのに、両親はそう考える私を許してはくれない。

“僕はサッカー選手になる” や “私は看護師さんになって困っている人を助けたい” は

夢として許されるのに、、、

なぜ、ただ幸せだけをを望むことは許されないのだろう。

ただ生きていればいいじゃ無いか、ただ生きて好きな事をしていればと。

生きているだけで偉いだろう。生きて自分の幸せを願うだけでも偉いだろう。

だけど、この社会は生きているだけでは許されない。

人と人を支えるために、何か利益を生み出さなければならいのだ。

そして、何者かにならなければならない。

さようならとじゃあね。

皆さんはどう使い分けてますか?

さようならとじゃあね

どちらも意味合いは同じです。

日本語だけには限りませんが、

言葉とは面白いもので、

同じ意味の言葉を使い分けることによって意味だけではなく、

その時の感情や、その言葉を伝える相手への敬意を表すことができます。

義務教育を受けてきた人ならある程度の受け取り方は同じだと思います。

小さい頃は学校で

さようならは先生に向けて、じゃあねは友人に向けて使ったのではないかと思います。

けれど、大人になるに連れ

さようならは使うことが減る。なぜなら、じゃあねよりも相手を悲しみ、寂しさを感じさせる言葉だからだ。

もう会わない、会うことがないだろうと言う意味が込められている。

相対的にじゃあねは”また“の意味が隠されていて、もう一度会う可能性があると感じさせる言葉だ。

人は潜在的に会いたいと思う人にはじゃあね。会いたいと思わない人にはさようなら。と使い分けをする。

 

男女の別れの際、どちらがを使うのが正しいのだろう。

私がさようならと言って、彼がじゃあねと返す。

この使い分けにはどう言った意図があったのだろう。

彼が言ったじゃあねは私の心の中で残り続け、それが足枷となり、次へと進もうとする私を苦しませる事を

彼は考えていたのだろうか。

確かに私たちは喧嘩別れでは無い、だからと言って相手に希望を与える言葉は

その人の未来、将来を左右すると言う事を知っていて欲しい。

時にはそれが取り返しのつかないことへと発展する前に。

 

 

人生の岐路

私は比較的に裕福な家庭に生まれ,なんの不自由のない生活を送ってきたと思います。

けれど、昔から空を見ては思うことがありました。

それは、誰か、何かが、

私を、連れ去り、”ココ“ではない、私が本当にいるべき場所へと連れて行ってくれる。

何故か物心ついた時からこんな事を思っていました。

この事を誰かに話すと、変人扱いをされ、理解も共感もされません。

だけど私は信じています。今私がいる場所は“仮の場所”、私を見つけるのに少し時間がかかってるだけだと。

 

”人生の岐路“ですが、沢山ありました。

そんなに長く生きてきたわけではないけれど。

その度、自分で考え、選んで、納得し、成功してきたわけではありません。

選択を他者に委ね、時には運任せにし、失敗し、半信半疑ながら生きてきました。

それでもこの選択が合っていたと思えるようになるには、どんなに時間がかかるのだろう。

あと3ヶ月? 5年? それとも寿命を全うするまでわからない?

人は何の目的があって選択をし、生きていくのだろう。

私は”本当にいるべき場所“に連れて行ってくれる誰かを待つ

あるいは、自分で見つけ出す為に決断をする。

できる限り早く本当の場所に行くために。

初めまして。主人公です。

皆さん一度は経験してますよね。人生で一番悲劇的な時期を。

私は今、誰にも話せない秘密を抱えて、苦痛に耐えています。

生きる意味、働く意味、自分が幸せと感じる事さえわからなくなって、

なぜ存在しているのかを考えてしまう、そんな日々です。

 

私は普段こんな事を思うような人間ではありません。

心のどこかで私は大丈夫。乗り越えられると、自分を信じています。

だから、本当の自分を思い出す為にブログを始めることにしました。